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変な夢とLAノースリッジの地震(つづき)【再掲出30】 

● 変な夢とノースリッジの地震 ●(つづき)

1994年1月17日、午前4時31分。夜明け前のしんと静まっている日の出前のまだ暗いロサンゼルスの町にマグニチュード6.6の地震がありました。

※以下のブログは前回からの続きになります。

下から上がってきた若者から「下で火事が起きているような気配はないよ。」という情報が聞けてホッとしたわけですが、その間、何度も何度も余震があり、その都度、また大きな揺れが来るのではないかとびくびくしていました。ほどなくして漸く日の出の時間が来て、朝日が照りだし、町が白じんできました。闇が去るだけでかなり気持ちが明るくなってきました。町が一体どうなっているのか、テレビが見られない状態なので皆目分りませんでした。しばらくすると、停電で繋がらないとばかり思っていたリビングの電話が不意に鳴りだしました。出てみると、それは東京の実家から我々の安否を気遣ってのものでした。この冬の時期は日本の方が17時間先に行っていますので、日本は1月17日の夜の10時を過ぎていることになります。ニュース速報として既に報道されているとの事でした。「私たちは二人とも無事なので心配しないように。」と言って電話を切ったのですが、ほぼリアルタイムで情報が伝達されていることに妙に感心してしまいました。 

日が昇り、朝日が部屋に差し込み始めると地震による部屋のダメージが思っていたよりもひどいことが分かりました。すべての部屋の壁に下から天井に向かって亀裂が走り、その壁の崩れ落ちた破片が床の上に散乱し、風呂場の浴槽の中にも天井から剥がれた塗装の破片がたくさん落ちていました。キッチンの床の上の状態は先ほどお伝えしましたが、多くの皿が割れているのに加えて家内の一番のお気に入りのミルクピッチャーも物の見事に割れていて、彼女は残念そうに床に飛び散っている破片を集めていました。リビングに置いてあった2メートルほどある柄の高いライトスタンドは横倒しになっているし、今まで立っていたもの、立てかけていたものはすべて倒れていました。今回の地震はやはり恐怖を感じただけあって、その「凄まじさ」に改めて驚きました。余震はまだまだ続いていました。こういった不安定な状態は、きっとこれからしばらくの間は続いていくのだろうと覚悟することにして、まずは床に散らかっている割れた破片などを片付けることにしました。

軽く片付けた後は、暴動の時と同様に不測の事態に備えてスーパーに買い物に行っておくべきだということになりました。

午前9時50分、買い物のために家からエレベーターホールに出てみるとかなりダイナミックな亀裂が壁に走っていました。エレベーターは停電で動いていないので裏の非常階段で下まで降りていきました。

駐車場から車を出して暴動の時に唯一営業をしていたスーパーマーケットにまずは行ってみようということになりました。暴動の時と同様に全ての信号が消えており、道路上の車はみな普段よりかなりスピードを落として走行していました。そのお店に着く前に、考えれば分かることだったのですが、このお店自体も地震の被害にあっている訳で、陳列してあった商品のほとんどが棚から落ちており、ビン類などはその全てが割れて中身が床に飛び散っているという状況でした。中を見るとお店のスタッフが大きなバケツの中にガラスの破片を集めながら、一方モップで一生懸命に床を拭いていました。このお店は中に入れる状態ではなかったので、他のスーパーに行くことにしました。普段であればスーパーで買い物をすることなど極々普通でスムーズな生活の一部なのに、この日の「スーパー探し」は暴動の時以来の”難儀な作業”でした。

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 上の写真は通常時のロスの模様であり地震直後のものではありません。Nimue SlotにとるPixabayからの画像

やっと見つけたのはビバリーブールバードとドヘニー ドライブ通りの交差する角にあるヒルズというスーパーでした。しかしながら、入り口では入場制限がなされており、既に店の前には長蛇の列ができており、お店の中に入るにはこの長い列に並んで待つしかなさそうでした。仕方なく我々も最後尾に並ぶことにしました。

待つこと、およそ1時間。ようやく店の中に入れたのですがこのスーパーマーケットの前で待っている1時間の間にも体に感じる余震が何回もあり、その都度、並んでいる人たちの間から「お~!」 と言う大きなため息ともつかない声が上がっていました。

スーパーに入れて必要な食材、飲み物、トイレットペーパー、ティッシュなど、とりあえず不足したら困る生活必需用品を一通り何とか買い込むことができました。

家に帰るとパークラブレア内の復旧作業は、迅速ですでに電気も通っておりテレビが見られる状態に戻っていました。スイッチを入れると各局こぞって地震によるダメージの様子を伝えていました。震源地はノースリッジというロスの北にある町でマグニチュードは6.6。ただ震源がとても浅いところで起こったが為に震源地に近い地域での被害は物凄く、瓦礫と化した家が画面に映し出されていて、家を失った大勢の人達がパジャマ姿のまま沈痛な面持ちで悲嘆に暮れていました。

ヘリコプターからの映像も写し出されていて、フリーウェイが随所で落ちてしまっているようで、完全に寸断されてしまっている場所も一カ所や二カ所ではすまない様子でした。

その後は余震が続く中、夜までテレビをつけて被害の状況を見続けていました。死者の数は57名。負傷者及び家を失ってしまった人はそれぞれおよそ1000人を超えているとの発表でした。震源地に近い病院は負傷者で溢れており、フリーウェイもサンタモニカフリーウェイ、ゴールデンステートフリーウェイなどがものの見事に破壊されていて復旧にはかなりの時間がかかり、ロス市内の交通はしばし麻痺状態が続くことになるだろうと報道していました。

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地震発生から一か月後にLos Angeles Timesのスタッフにより発行された特集本の表紙です。写真に写っているのはマジックマウンテン近くのゴールデンステートフリーウェイです。Photo by Michael Edwards

被害総額も1949年のサンフランシスコ大地震時のおよそ4.3倍の30ミリオンドル(200ミリオンと報告している資料もある)にまで達するだろうとのことでした。

 

ノースリッジのメドーというアパートでは16名が亡くなられており、そのほとんどがアパートの一階部分に暮らしていた方々で上の階が落ちてきて押しつぶされてしまっての圧死でした。

ある青年が自分の祖母の安否を気遣い、祖母が暮らしているアパートの部屋の中に入ってみると祖母の姿はおろか彼女の使っていた家具すら見つけることが出来ませんでした。実は、よ~く見てみると彼の祖母の部屋は自分の立っている床の下に押し潰された状態になっていることに気づいて、ただただ呆然とするしかないというケースもあったようです。

このような話を聞くと自分は家の中にヒビ(クラック、cracks) は入ってはいるものの、寝るベッドはあるし、食事をすることも出来る訳で生き延びられていることを素直に感謝しました。

この地震の後、しばらくの間、LAで車通勤をしている人達全員が仕事にいくのに難儀を迫られることになりました。家の近くに南北に走っているフェアファックス(FAIRFAX )という通りがあるのですが、地震の前は普通にフリーウェイの下を通り抜けてすいすいと向こう側に行けていたのですが、地震でフリーウェイがずどんと落ちてしまいその道を塞いでしまったのです。これはロサンゼルスを左右に移動する大きな主要道路が完全に使えない状態になってしまったことを意味していました。 つづく

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