自分に関係のない「事・知識・情報」などは耳に聞こえてきたとしても、中々頭にはいってこなかったりします。若い時の自分を思い返すと、ついつい自分の中で「どうせ俺には関係のないことだし。」ととかく考えがちでした。 もしかすると、この考えが私が一流人に近づくことが出来なかった幾つかあるの理由の一つなのかもしれません。
上はGerd AltmannによるPixabayからの画像
確かに子供の頃から「優秀」というか「あたま」の良い友人たちは、自ら率先して「本」を読み、親の言うことも聞いて、皆、吸収力が高かったように思います。私の場合、小学校の頃は学校から帰ると「何をして遊ぼうか?」「今日は誰々ちゃんちに遊びに行こう!」とただひたすらにその日ぐらしの「遊び」のことばかり考えていました。恥ずかしながら小学生の私の成績は「下の中」位でした。私は「母子家庭」で育ちました。私の母には下に妹が3人いました。「男はかくあるべき!」というように「男」の生き方を強く説いてくれる男性の存在はありませんでした。ですから「男はかくあるべき」という「男の生き方」は自分で学ばなければならないという状況でした。
中学生になると少しは「本」にも興味を持ちだし、ありがたいことに高校時代に「映画」というものに強く魅かれてしまってからは映画をたくさん観ることによって自分なりに「理想の男性像」を探るようになっていきました。
また同時に「映画」からは他に「社会の厳しさ」も教えてもらいました。そして、幾ら勇んだところで一人の人間の力などではどうしようもない事柄がこの世の中にはあるのだということを学んだのも「映画」からでした。
その「どうしようもない無力感を感じることになった映画」について今日は書かせてください。その映画とは日本で1987年に公開されたオリバー・ストーン監督の「プラトゥーン」です。
この映画のジャンルは戦争映画です。この作品のことを知らない若い方の為に少しばかり説明させてください。監督のオリバー・ストーンはベトナム戦争の時代、大学生だったのですが、ベトナムで何が行われているのを自らの目で確かめたいという思いから大学を辞めて、志願兵として戦地に赴き、戦地での生活を体験することになります。その体験をもとに彼は「プラトゥーン」の脚本を書きあげます。そして、後年、プロデューサーのアーノルド・コペルソンとともに映画化に乗り出します。しかし、アメリカの大手映画会社はどこもこの映画に「可能性を感じない」と言って製作に手を挙げはしませんでした。出演者たちのインタビュー映像を見ても誰もが「この映画は興行的には当たらない」と思っており「ただ映画化しておくべき内容だと思ったので参加した」と語っています。また「興行的に当たらないだろう」と皆が思ったのには、大きな理由があって、実はこの作品、公開されたのが「クリスマス」の時期だったのです。確かに「戦争映画」には最も向いていない時期だと私も思います。ただおそらくこれが功を奏して時期的にアカデミー賞の選考には良い結果となりました。
しかしです。この映画は公開されるや皆の予想に反してヒットすることになり、アカデミー賞にも8部門でノミネートされ、そのうち4部門で受賞するほどの名作になってしまったのです。この作品は冒頭からサミュエル・バーバーが作曲した「弦楽のためのアダージョ」という曲が使用され、また劇中なんどもこの曲がかかります。この曲はケネディー大統領が暗殺された際の葬儀の際に使用された曲でもあります。作曲をしたバーバーはこの曲は「葬儀のために作った曲」ではないと言って憤慨していたそうですが・・・。
※Youtubeにいくつかこの曲を演奏しているサイトがありますが、私個人としてはオーケストラ・アンサンブル金沢による以下の映像が素晴らしいと思いました。「池辺晋一郎が選ぶクラシック・ベスト100」より。
この映画の舞台は「ベトナムの戦場」であり、映画を観ている観客たちはまるでその小部隊(プラトゥーン)の一員になってしまったか思うほどにその一員と化してしまい、戦場という悲惨極まりない小世界で時に仲間が、自分が傷つき、血を流し、痛みと恐怖で叫び声をあげるなか、何が善で、何が悪なのか、「命」がけの極限の小世界で、ただ「生きて闘う」ことだけが「大事」であり、傷ついたものは「お荷物」となり、死んだものはただの「死体 / 物」でしかない。小世界で必死に生き抜く兵士たちの後ろに聞こえているのは銃声であり、ヘリコプターの羽根の音だけという世界。静まりかえるジャングル。その足もとには「へび」「ムカデ」「アカアリ」などがいるが気にもしていられない。夜もゆっくり寝られない。敵兵が近くに潜んでいるかもしれない、だから絶えず息をひそめている。
そのような状況下で描かれる「善」と「現実」の対立。「善」を主張しぎて「命」を落とす者。「戦場」なのだから「血」による解決こそ「現実」なのだと自らの「善」を主張する者。命を奪い合う極限の場である「戦争・戦地」で行われる「狂気」の沙汰。「良心」の呵責などという言葉などが通じない世界。
以下は、主人公のクリス・テイラー(チャーリー・シーン)に、除隊が許されてベトナムを離れることが決まった黒人兵士が投げかける何でもないセリフです。
「英雄ぶってムチャしたところでつまんねぇだけだからな」
この言葉というのは戦地に限らず、実はどのような世界や局面においても当てはまる言葉なのではないでしょうか。
「つまらない思い(損な事、怪我・死)はするなよ」
プロ野球の世界でいえば、取れるかどうかは分からない球をダイビングキャッチするかどうかを判断する瞬間。飛び込むか、あるいは、あきらめて力を緩めるか。ムチャなのか、それともスキルが凌駕しているのか? 判断はその一瞬にかかっています。だから「ムチャ(目立つようなこと)」はするなよといいたくなります。ファインプレイと称賛されるかもしれない、でも、そのプレイで大怪我をしてしまい選手生命を縮めてしまうかもしれません。
それが、戦場という命がけの現場にいれば、尚更、一瞬の判断の重みは増します。
時に一瞬の判断が、その後の人生を左右することだって人生にはありうるのです!!
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若い方々は、この映画のことはあまり知らないでしょう。ですが、時間がある時に、是非自分一人でどっぷりとこの映画をご覧になってみて、いろいろなことを感じて、考えてみてください。
人生には苦しい局面があり、世界では、今、正にそのような局面の中に身を置いている人たちがいることを考えてみてください。
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ただ、若い方々には、こうもお伝えしておきたいです。
「人生、長く生きていると『あ~~俺(私)は生きてきて良かったなぁ~』と思える日がやってくることも、それはそれで事実なのですよ!と。」